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レビュー

6steps - 6段の階段から生まれるダンス - / 藤田 一樹

 

ダンサー・振付家の木村玲奈による《6steps~6段の階段から生まれるダンス~》は、「階段」というありふれた構造物を巡るダンス作品である。客席に入ると目に飛び込んでくるのは、2つの木製階段だ。ひとつは観客に対し正面に、もうひとつは断面を見せるように横向きに設置されている。本来2つの空間を結ぶためにある段差は6段目で目的を失い、ただそこに切り取られたように鎮座している。この日常が裁断された非日常的な空間で、2人のダンサーが階段と対話するようなダンスを繰り広げる。2021年3月のワーク・イン・プログレスを経た今回の公演では、木村に加えて川山洋、杉本音音が出演者に名を連ね、この3人で毎回異なるペアを組んで上演された(筆者が鑑賞したのは木村・杉本の出演回)。前半ではソロが交互に、若しくは同時に、そして後半ではデュオが展開していく約1時間の作品である。

 

開演すると、ダンサーが階段をゆっくりと上り始める。本作で基調となるモチーフは、この6段ある階段の上り下りというシンプルな動作だ。その足取りは慎重かつ厳かなもので、それ故に異質な時間が流れ始める。時間は堰き止められ、引き伸ばされ、解かれ、そして次の一歩へと再び束ねられていく。そこに空間に線を引くような腕の動きが加わる。平行に保たれていた目線は徐々に弧を描き、階段に向かって正面性を保っていた上体にも捻りが加わる。ときに立ち止まり、段差に腰掛けるなど、階段昇降だけにとどまらない動きが少しずつ重ねられていく。しかし、これらの動きは日常動作の範囲からは決して逸脱しない。例えば、階段をよじ登るとか、体当たりするとか、そのような装置自体の機能を脅かすような行為は一切ない。ありふれた階段がその見知った機能を保ったままそこにある。それは暗黙のうちに、そこで巻き起こることが、日常生活からさほど遠くないところにあるように思えてくる。

 

 

上演が始まってしばらくすると、同じような動きが反復されていることが分かる。あくまでも同じ「ような」動きなのであって、厳密な再現性には重きが置かれていない。振付があるとすればダンサーの持つ固有のリズムや解釈に委ねられたものだろうし、成功か失敗かといったゲーム的なルールが観客と共有されるわけでもない。時間が流れるにつれて、どこか既視感を覚えながらダンサーの動きを眺めている自分がいる。ここまで書くと退屈したように思われるかもしれないが、むしろその逆で、見るべきものは動き以外にこそあったように思われる。というのも、私の観客としての関心は、ダンサーが階段という場に身を置く行為それ自体だったからである。そこでの存在の仕方、態度そのものが本作を読み解く鍵であるように思えてならない。ここでの階段は、ダンスのような、その淡く不確かに立ち上がる現象を観察する装置として機能する。ダンサーの一歩からは、それを積み重ねて振付の線を描こうとするよりかは、点を打つかのような静かな重みが感じられる。それは一歩ごとに既に生まれたものをリセットするように、若しくは、ダンスとは何かという考えすら手放すために踏み出されているかのようだ。別の言い方をすれば、ダンサーは反復しないことを反復しているのであって、段差ごとにダンスが生まれる前の静寂に立ち戻ろうとしているように見える。

 

その静寂は、破られることでより存在感を増していく。例えば、各場面の合間に挿入された力強い手拍子は、その規則的な音で空間を撹乱する。階段の周りを大きく周回する2人のダンサーは、互いに異なる拍子で手を叩き、階段に集中していた眼差しを空間全体に拡散させる。しかし、閑話休題的な効果を超えることはなく、再び視線は静けさに満ちた階段へと吸い込まれていく。終盤には、無音だった空間に突如としてピアノ曲が鳴り響くが、この場面でも静寂と相反するための対位法的な効果が強調される。ダンサーはその叙情的なメロディに拮抗するかのように、慎重な歩みを止めることはない。このように本作は、ソロやデュオといった形式の違いを除けば、段階的な変化・発展をあえて迂回し、保留するように構成されている。

 

階段という装置・振付は、ダンスの表れを必ずしも保証してくれない。階段を前にしたダンサーの沈黙した佇まいは、ゼロ地点に立とうとする禁欲的なものでありながら、同時に「ダンスが生まれるかもしれない」という期待が込められているようにも思われる。それでは、客席に座っている私は、いったい何を見ているのか?という疑問が浮上する。この問いに答えるとするならば、あたりまえなのだが、私は「ダンス作品」を見ているのだろう。ここでの作品とは、試行錯誤のプロセスを見るための額縁のようなものであって、木村の言葉を借りれば「フレーミング」されたものだ1。こう考えると、被写体である「ダンス(のようなもの)」、そしてそれを縁取るための 「ダンス作品」は、似て非なるものだと言えるかもしれない。

 

しかし、ここで新たな疑問が頭をよぎる。もし日常的な身振りにダンスを見出すことができるならば、それをあえて舞台芸術として縁取りすることに、どのような意味があるのだろうか?木村は当日パンフレットに寄せた文章でこの問題に触れつつ2、最後にまた違った言い回しで観客に問いを投げかけている。「ダンスはどこに、誰のためにあるのでしょう?」。このシンプルかつ手強い問いに、これまでも木村は様々なかたちで応答してきたように思われる。2012年から継続する《どこかで生まれて、どこかで暮らす。 》では、様々な土地への移動と移住を繰り返し、同一の作品をいまも編み変え続けている。2019年に発表した《接点》では、解釈に幅を持たせた指示をダンサーに与え、振付作品としての同一性に揺さぶりをかけた。2020年には東京郊外に《糸口》という活動拠点を構え、創作と発表だけにとどまらない実験と交流の場を運営している。このように木村はダンスを見出す・生み出す環境自体を複数の位相で探求している。それはダンスを(若しくはダンスのような現象を)より広い視野で捉えることと、それに作品という固有の輪郭を描くことの緩やかな往来である。本作における階段というありふれたオブジェを巡る日常と非日常、そしてフィクションとノンフィクションの重なり合いは、木村の創作活動に一貫しているテーマだと言えるだろう。

 

ここで最後の疑問を浮上させたい。そもそもダンス作品を見ると言うとき、それは劇場での鑑賞体験のみを指しているのだろうか?このように問いたいのは、木村の実践に作品という輪郭を与えているのは、上演だけではないと思われるからだ。今回の公演では作品発表だけでなく、観客との交流にも力を入れていた。準備過程の映像配信やワークショップ、終演後のディスカッション・トークなど、開かれた相互的な「場」の現れは、これまでの木村の活動とも響き合うものだろう。終演後に行われたトークでは、ダンサーと観客の間で示唆に富んだ言葉の交換がされていた。ここでは上演中に二分されていた演者と観客の関係が解かれる。それは演者によって「フレーミング」されたものを、観客と共に「リフレーミング」する体験である。後者の体験が前者に匹敵するほど豊かであるが故、このような場の表れは作品の副次的なもの以上になり得るように思われた。本作では、既にあるダンスをフレーミングするのではなく、むしろフレーミングすることによってダンスを生み出そうとしていたように見える。それは「作品」というフレームを作ることで、「ダンス」という被写体の到来を待つような、極めてストイックな試みでもあった。ただこれは観客である私が、そのフレームを外側から眺めているから、そう感じるのだろう。もし私もそのフレームの中に、被写体になるような体験ができたとしたら、また違った感想になるのではないか。これは観客席でじっと座って観察しているよりも動き出したい、踊り出したいということなのか、それともこれはいったいなんなのかと話し合いたいということなのか。兎にも角にも、このような能動的な態度になっている時点で、私もそのフレームの内側に、若しくは階段に、足を踏み入れているのかもしれない。

 

1 木村玲奈「〈ダンス〉と『作品』について」, 児玉北斗『12 Writings on Dance』, 2012
2 「ダンスは既に世界に溢れていて、誰しもが振付家、ダンサーになり得るとしたら、私がずっと向き合ってきた舞台芸術としてのダンス・ダンス作品もまた、生活の中に在りながら誰しもがつくったり踊ったりすることができるかもしれない、そんな願いを込めながら6stepsの創作をはじめました。」(当日パンフレットより)

 

藤田一樹(ふじた かずき / ダンサー、現代ダンス研究)
演劇を学んだ後、2015年に渡仏。パリ地方音楽院舞踊科を経て、2018年アンジェ国立現代舞踊センター(CNDC)卒業。2021年パリ第8大学舞踊学科修了。キム・キド、アナ・リタ・テオドロ、高田冬彦らの創作活動に携わる。

 


 

踊り手の動機を深く問う - 6stepsという装置 - / 落 雅季子

 

木村玲奈と私の出会いは2020年秋に遡る。劇団ダンサーズ『都庁前』(作・岡田利規)の劇評を通じて、当時彼女が演じた役についてオンラインで話を聞くなどした縁で、2021年3月の森下スタジオでの『6steps -6段の階段から生まれるダンス-』ワークインプログレスに立ち会う機会を得た。今回はそれ以来の、階段を使って昇降し、身体からダンスなるものを引き出す本作の鑑賞だった。
会場となったのは森下スタジオの稽古場然とした雰囲気とはまたおもむきの違う、清潔な雰囲気の青梅市文化交流センターのホール。客席とフラットな舞台には、木枠を組み合わせてつくられた一段21cm、6段の階段がふたつあった。手前には客席を向いて置かれたもの。奥には客席から見て傾斜の見えるように置かれたもの。いずれにも強い照明がまっすぐに落ち、階段に映る影が浮き立つ。

 

 

まず一人目の出演ダンサーが階段の裏側から静かに現れ、階段の上り降りをはじめるソロパートから作品が始まる。一人目が階段裏に隠れると次は二人目が登場し、同様に階段へアプローチする様子を見せるが、二人の身体条件も踊るときの空気の作り方も異なるので、当然同じ見え方はしない。
その後、手拍子でリズムを刻みながら二人の動きが交差し、二つの階段での昇降運動が同時におこなわれたりもする。タイミングは合っていたり少しずれたり、片方のダンサーが途中で真ん中の段に座ってみたり、手で縁を叩いてみたりと、様々なしぐさが試される。
終盤のパートではひとつの階段に二人がいっぺんに上るが、これは出演者同士の組み合わせによっても違った上演になるだろう。わたしが観たのは木村と杉本音音(すぎもと・ねおん)のペアだったが、長身の杉本と、大きく両手を広げた杉本の腕の下をくぐることもできるほどの木村では、そもそも21cmの段差に対する表出そのものからして別物だし、本人たちの表現のベースとなるダンス経験もむき出しの差異となる。

 

上演後の、ダンサー3名によるアフタートークと客席からの質疑応答も含めて丁寧な場づくりがなされていた。「屋外での上演予定はあるのか」との問いに木村が「将来的にはあると思います」と前置きした上で「今回はシンプルな劇場(ホール)で上演したことに意味がある」と答えたことから派生し「それゆえに階段を上る理由を見つけるのが難しかった」と川山洋(かわやま・うみ)が何度か言っていたのが気になり、トーク終了後に話しかけてみた。2021年のワークインプログレスでお会いしたと話すと、彼は私を思い出してくれたようだった。
彼は拠点を東北に置いており、稽古を積むのは主に屋外で、たとえば川の土手まで降りるためのコンクリートの階段や、実家の室内階段でおこなっていたらしい。そのときは「上る理由が外部にある」と感じていたようなのだ。風の流れ、鳥の声、ほの暗い二階というような情景が、彼に段差を昇降する必然性を肉付けしてくれていた。だがこの更地のような劇場では、自分の内部から「体を持ち上げる動機」を見出すのが難しく、一歩がなかなか踏み出せなかったのだと言う。

 

ならば、と私も試すことにする。そのために、終演後の階段は解放されているのだから。
木製の階段の下に立ったが、たしかに川山の言うように、見上げた先に目的地のない階段に、どう向き合うかためらわれた。アパート、駅、オフィスビル。どこを思い出しても階段とは階層を移動するための道で、必ず先に目的地がある。このように「昇降」だけを目的に置いたとき、人はどのように一歩を踏み出すか。そもそも、人は「昇降」だけを目的とみなして体を動かせるか。何を拠り所とするのかを問うように、階段は立ちはだかっていた。
足裏で床を押す。続いて上に伸びる空気を感じる。地面の下まで脚を突き刺すイメージと、頭を上に引っ張られる両方の力を使って体を持ち上げる。その動きを繰り返し、実際に階段のいちばん上に立ってみて、私はなかば途方に暮れた。先に何もないどころか、とんだ高さまで上ってしまったと思いながらあとは降りるしかなくなるこの6段のオブジェの厳格さに、降参した。『6steps』のエッセンシャルな部分を見せるには、ノイズの生じない屋内での上演形態をまず通ること。「屋外よりもまず劇場で」と言った木村の言葉の意味するところが、そのときわかった。
そして転んだりしないように、体の軸を上にまっすぐ残す意識を保ちながら私は床まで降りた。今度は、地上という目的地があることに感謝しながら。

 

動きたいように動くのも、踊りたいときに踊るのも簡単だ。では、人をそこに駆り立てるものに対してどのように意識的になるか。身体の奥深くでゆらめく存在意義のさざなみに、どこまで繊細でいられるのか。”6steps” とは、外的な動機を極限まで削ぎ落とすことで、今目の前の一段に向き合う勇気をダンサーに迫る、重厚な装置なのである。

 

落 雅季子 (おち まきこ / 演劇批評家)
1983年生まれ。一橋大学法学部卒業。金融、IT、貿易業務に携わりながら舞台芸術批評を書き、各種ウェブ媒体、雑誌『悲劇喜劇』等に寄稿。「CoRich!舞台芸術まつり!」2014、2016審査員。18年にルーマニア・シビウ国際演劇祭に批評家として招聘を受ける。近年はクラシックバレエの研鑽を積む他、街にまつわる演劇と音楽のライブ『しょうどしマーチ』、ショーケース『Auditorium vol.1』に作家・パフォーマーとして出演。

 


 

身体特性を炙り出す装置としての階段 / 小泉 うめ

 

街中で階段を昇り降りする人にあらためて注視してみるとそれぞれに個性があって興味深い。日常反復されている何気ない単純な動作ではあるが、身体の各部位にかかる負荷の連動や歩行との違いを意識できるようになるとそのテクニックについても気づくことができる。ダンスとは何かを考えると話は難しくなりがちだが、ダンスはそういう所にも存在している。

 

「6steps」は振付家・ダンサーの木村玲奈の呼びかけにより集まったダンサー・WEBエンジニア・観察者・美術家・舞台制作者と共に立ち上げられた団体である。6段の階段を振付の一部として使用するダンス作品の創作を通して、舞台芸術と一般社会を繋ぐダンスプラットフォームとしての機能も模索している。

 

本作は2021年3月に森下スタジオ でワークインプログレスが行われ、今回2022年4月が公式には初演となる。ダンサーは2020年から木村とこの作品を創ってきた川山洋に新たに杉本音音が加わり、各上演回で入れ替わりながら2人のダンサーでパフォーマンスを行う形で公演が行われた。

 

舞台には美術の吉永晴彦によって製作された木製の6段の階段が2体、客席に向かって下手前方に縦向きに、上手後方に横向きに設置されていた。開演時には2人のダンサーは手前の階段の裏側に隠れており階段だけが舞台に存在する。階段は建築法に基づく標準的な規格で作られており手すりなども伴わないシンプルなものだがダンスの舞台にそれらだけが置かれていると異様な存在感も感じられた。舞台装置として上下動を伴う階段が用いられることはそれほど珍しくはないが、この上下動そのものをダンスの主題としてしまった作品というのは稀なものだろう。

 

ダンスは先ず1人が前方の階段で踊り、続いて入れ替わってもう一人が後方の階段で踊る。そして階段を入れ替わってそれぞれの階段で同時に踊った後で、最後に前方の階段で2人が同時に踊るというソロ・ソロ・デュオの構成である。振付にはいくつかの簡単な決め事はあるようだが、所作についてはそれぞれのダンサーに委ねられているところが大きく、3人の動きは3様である。

 

最初に階段の陰からダンサーは能のシテのように静かに現れて階段に向かう。そして十分に呼吸を整えてからゆっくりと階段を昇っていく。その姿には死刑台への階段を昇る囚人のような悲壮感を感じたりもしたが、階段を昇りきるとダンサーは階段を降りてくるのでそのような感覚はそこで終わる。途中からは窮屈な姿勢で昇ってみたり駆け昇ったりジャンプしたり、またその途中でポージングを見せたりもする。階段という日常的に使われる装置が非日常的に使用されることにより、それはどんどん観る者を惹きつけていく。更にそれによって各ダンサーのコンテンポラリーダンスにおけるこれまでの経験やバレエや新体操といった基礎の素養が炙り出されるような瞬間もあり、観る者にも興味深くそれはこのダンスの大きな副産物と言えるだろう。

 

木村によると、「6steps」は階段を使った新しい遊びの創作でもあると言う。たとえば「だるまさんがころんだ」という子どもの遊びがあるが、この遊びは地方によって名前が異なり「ぼんさんがへをこいた」とか「へいたいさんがとおる」とか様々な亜型が生まれている。重要なのは10数えるための10文字のリズムと鬼がそれを唱える際につける緩急に対する語呂の良さだと思われる。「6steps」もベーシックな構成は守りつつその実践を踊るダンサーに委ねることによりダンサーの身体性を存分に発揮させながら作品の変化を生み出していく設えになっている。それは今後別のダンサーや振付家によって創作されることで証明されることが期待される。

 

ちなみに「だるまさんがころんだ」は児童教育においてそのゲーム性による予測対応能力や動く・止まるの反復による身体能力を養うだけでなく、他者との関わりや違いを感じることや日本の文化に親しむなどの効果を認められているそうだ。ダンサーのように踊ることはできないとしても、階段があればどこでもできる「6steps」には社会に対して類似した価値を提供することもできるかもしれない。

 

そもそも階段は高低差のある場所の移動を補助するものであるが、「6steps」の階段は階段としてだけの装置であって昇ったり降りたりした先に目的も報酬もない。この階段はその点において通常の階段とは決定的に異なる。その気づきによってこれが遊びなのだということも理解でき、そのような眼で眺めることができた。

 

2人のダンサーはお互いを意識しながらも相手のことを見るのはそれぞれの階段を昇りきったところで離れて見つめ合う1度だけである。そこで別の階段で踊っている相手がいることを確認するが、その後もまた自分の踊りに戻ってしまう。最後の同じ階段で踊る際には身体的には少しずつユニゾンして行くのだがその時にも2人は相手の顔を見ることがない。そういう意味では2人で踊っていても6stepsはひとり遊びなのだと言えるだろう。決して勝敗を争うものでもなければ、理想とされる踊り方があるわけでもない。だから完全なソロ作品として上演することも可能かもしれないが、2人のダンサーが対比的に踊りあたかも偶然のようにその時間を共有することによってひとり遊びの自由さや寂しさは浮き彫りになるように思われる。

 

 

この作品はコロナ禍を題材にしたものではないが、昨今の多くの作品がそうであるように、いま創作をするということはどうしても少なからずその影響を受けてしまう。またもしその影響を排除して創作できたとしても、観客もまたその影響を受けているのでやはりどうしてもそれからは完全に逃れられない。この作品から感じる「すぐそこに誰かがいるのにそれとは関わることが出来ずに自分は1人で遊んでいる」ような感覚からはやはりそのようなことを想像することを禁じえなかった。そのため2人のダンサーは組み合わせやシーンによって、ずっと直接会えないでいる友達やなんとなく触れ合うことを憚られている恋人や時間を持て余して仕方なく一緒にいる熟年夫婦などに見えたりもした。

 

また観ている途中で太田省吾の無言劇「水の駅」を思い出した。「水の駅」では人々が水場に通りかかり水に触れ去って行くが、「6steps」ではダンサーたちは現れて階段を昇って降りて消えていく。足音と吐息だけが静寂の中に響く。驚くような大技が繰り広げられるわけではないのだが、客席全体を集中させる不思議な魅力がそこにはある。それはその行為にダンサーとしてそこを歩く「生」が感じられるからではないだろうか。木村がこの階段を舞台装置として思いついた感覚は、かつて太田があの水場を思いついた時の感覚に近似しているようにも思えた。

 

また途中ダンサーが踊る階段を入れ替わる際にはそれぞれ異なるリズムで手拍子を打ちながら階段の周りを周回する。緊迫した階段の昇降シーンからの小休止的でもあるが、6カウントで続くこの手拍子がそれぞれの組み合わせによって偶然のように新しいリズムを刻む。

 

ここでこの階段がどうして6段なのかということを考えた。数学的に6という数字がとてもおもしろい性質を持った数字であることや歴史や宗教において6が持っている特別な意味などについても想起させられた。とりわけこのシンプルな階段を昇り降りするだけで2拍子・3拍子・6拍子というリズムが聞こえてくるのがダンスとしては効果的で、木村の真意は分からないがこの階段が6段であるということはこの作品において重要な役割を果たしている。

 

作品の後半でドヴォルザークのユーモレスク第7曲が流される。この選曲について木村は今のところ作品構成上絶対的なものとはしていないようだが、ワークインプログレスで初めてこの曲が流れたのを聞いた時、この作品にとてもふさわしい選曲だと感じた。

 

ドヴォルザークは毎日40小節と決めて作曲するような地道で勤勉な作曲家だったらしい。そしてそのドヴォルザークがニューヨークのナショナル音楽院院長に登用されていたころに数々の大作のために用意していた楽想の中から使われていなかったものを用いて休暇中に作曲したのがこのユーモレスク集だと言われている。コロナ禍における緊急事態宣言下の自粛期間は不意に訪れた休暇のようで最初は少し浮わついた気分になったりもしたが次第に不安や焦りは強まり、その期間中に様々な心境の変化がもたらされた。それは休暇ではなかったのだが、この8小節区切りで変化していく曲はそのようなドォボルザークについての知識が無くとも創作当時の環境や心情に重なるものがあり印象深く感じられた。

 

そしてこの曲が流れる時もダンサーは音楽に合わせるようなことはせずにそれぞれに自分の踊りを続ける。静かなこの作品においてクライマックス的なシーンではあるが、それでもダンサーたちの踊りは変わらない。階段を昇って降りるという日常的な営みが粛々と続く人生の日々にも重なって見えた。

 

小泉 うめ (こいずみ うめ / 6stepsメンバー、 作品観察者・感染症対策アドバイザーとして参加)
和歌山市出身。舞台制作・舞台感染対策・劇評家(観客発信メディアWL)。1980年代より内外の演劇・ダンスを観劇。近年は劇評を執筆しつつ舞台制作者としても活動。現在は舞台公演の感染対策業務にも従事している。